イラク難民のこころ
ヨルダンにおける心理社会的ケア
2010年1月
ヨルダンにおける心理社会的ケア
日本では、阪神淡路大震災以来、自然災害の被害にあった人びとへの心理社会的ケア/サポートの大切さが注目されるようになってきました。一方、紛争を体験した人びとへの心理社会的ケア/サポートにかんしては、なじみがありません。日本があまり難民を受け入れていないこともあり、難民に対する心理社会的ケア/サポートを実施している団体も数えるほどしかありません。そのような状況において、ヨルダンにおけるイラク難民支援を実施している日本のNGOは、海外で難民の心理社会的ケア/サポートにたずさわる、先駆者ということができるでしょう。
現地では、1週間の日程で、ヨルダンで活動する日本のNGO3団体、イラクで活動している日本のNGO2団体、海外のNGO2団体、ヨルダンのパートナーNGO数団体、ヨルダン当局2団体、国連を中心とする国際機関4団体、日本大使館、ヨルダン赤新月社を訪れました。研究機関を1団体訪問し、心理社会的ケアのコンサルタントにもインタビューしてきました。心理社会的ケア/サポートは新しい分野の事業とあって、どの団体も試行錯誤しながら実施しており、調査の発見は、わかったことよりも、課題と問題点のほうが多かったというのが正直なところです。しかし、心理社会的ケア/サポートは、人びとのこころに直接ふれるという意味において、被災社会との共生を実現するうえでは、とても大切な事業であることを再確認してきました。課題と問題点も、その克服にむけてチャレンジのしがいがあります。
*本調査を通じて「心理社会的ケア/サポート」という言葉の方が「心理社会的ケア」よりもより包括的に活動の実態を反映するものとして適切であることが理解されたが、調査開始時には「心理社会的ケア」という言葉を用いていた。
石井正子
ヨルダンでの調査が報告書となりました。こちらからご覧ください。
イラク難民への心理社会的ケア報告書 (PDF)
開かれた社会への支援を求めて
アチェ地震津波支援
2008年8月
開かれた社会への支援を求めて
20年ぶりのアチェ
20年前の1988年、北スマトラ州メダンに住んでいた私は、日本人の友人を訪ねてロスマウェに行ったことがあった。彼は、日本の石油会社の社員として、ロスマウェの広大な敷地を擁するモービル石油のコンプレックスに家族で暮らしていた。北スマトラのバタック人やジャワ人の友人からは、アチェではイスラム教を厳格に守っているので言動に注意するように、また紛争に巻き込まれないように注意するように、といった多くの忠告を受けていた。その先入観が作用したのか、ロスマウェの街並みもどこか堅苦しく、黒いタマネギの形をしたアチェに特有のモスクの形も、異様なイメージしか湧かなかった。
今回は、一人集合に遅れ、調査当日の朝、バンダアチェ空港から、タクシーに乗って宿舎に向かった。運転手から、「お客さんは、NGOかい?」と問いかけられた。津波のあと多くのNGOがやってきたけれど、いまはNGOも少なくなってきた、と彼は言う。「でも、住宅が多く建てられて、景気は悪くないよ」という彼の表情は明るい。
バンダアチェの中心街には、ジャカルタ風のおしゃれなレストランもあり、ケンタッキー・フライドチキンの店もできた。若い男女が連れ立って歩いている姿もある。モデルのようなファッションに身を包んだ女性がスター気取りで取り巻きの男性たちを従えていた。他地域のインドネシア人にとっても閉鎖的であるという20年前のイメージを持ち続けていた私にとって、アチェの開放的な明るさは、全く予想外だった。
よそ者と地元民による協働の物語
アチェ・ニアス復興庁(BRR)では、ジャカルタからやってきた政府関係者と、地元のアチェの人が机を並べて、コンピュータに向かって仕事をしていた。中庭にあるキッチンでは、軽食を取りながら夜になっても議論が続けられているという。長官や局長は、ジャカルタから派遣された政府関係者が多かった。日本に留学した経験をもち日本語を流暢に話す年配のBRRスタッフは、ホテルに家族と一緒に長逗留していた。このように、アチェ州の外からやってきたインドネシア人がアチェの復興のために精力的に働いていた。
マタントゥノン村では日本人宣教師が、被災した村にふらりと訪れ、有機農法を指導しはじめた。村の農民は、宣教師の教えのままに有機農法を始め、彼が村を訪問して、携帯電話で連絡してくれることを心待ちにしていた。敬虔なイスラム教徒の村で日本人宣教師が指導する有機農法という、この突拍子もない人と人の結びつき。
1978年にドイツの飛行機が墜落したマラッカ海峡に面した漁村であるクアラクルト村では、ドイツのNGOであるHELPが津波後の復興支援として、漁船や研修などの支援が行われた。30年近い年月を隔て、災害がマラッカ海峡沿いの村とドイツを直接結びつけた。
地震や津波で大きな被害を受けた地元の民が、災害後の人道支援という形で外部からやってきたよそ者と出会う。共生人道支援は、悲惨な災害がなければ恐らく絶対に出会うことのなかった地元民とよそ者が紡ぐ織物である。村おこしや町づくりというボランティア活動の多くが、外部から来た者と地元の人びとの共同作業であるならば、緊急人道支援もまた、よそ者と地元民による協働の物語に他ならない。
資金をもったボランティア団体がニーズ調査に基づいて、緊急支援プロジェクトを開始したというだけでは協働の物語につながっていかない。支援する側と支援される側が共有できる物語をもてなかったときには、資金が続かなくなれば当然のようにプロジェクトは途絶してしまう。
クアラクルト村のように、支援する側がなぜ支援するのかという物語を携えて支援を始めたときには、それを素材にして支援を受ける人びとも自分たちの物語を編み出すことができる。「なぜ、遠いドイツからわれわれの村に支援がくるのか」という理由を、村の人びとが自分たちの言葉で語ることができるのだ。人と人との関係性の中で緊急支援が行われたとき、支援のサステナビリティー(持続可能性)が保障されるのではないだろうか。緊急から復興、開発へとつながる継ぎ目のない支援を希求するならば、緊急人道支援する側が、意識的に「なぜ、私たちはあなたたちの村を支援するのか」という物語を創り出すことが求められているのかもしれない。
災い転じて福となす
アチェにおいて、被災後3年半の間に、10万軒以上の住宅建設が行われた。これだけ大規模な住宅建設が緊急支援という名前のもとで集中的に行われたのは、恐らく援助史上初めての出来事であった。実際に、中国村、慈済村、トルコ村を訪問して、その規模の大きさには驚かされた。また、援助団体が支援した村そのものを支援の大きな展示場にしていた。村の入り口には大きな門があり、トルコ村では家ごとにトルコ赤十字の紋章が貼り付けられている。
そういう援助の形だけを聞いて、住民は援助にネガティブな印象を持っているのではないかと事前に予想していたが、現実は大きく異なっていた。台湾の慈済仏教会が支援して作った慈済村では、津波で家族を失い、避難所で知り合い、2歳になる子どもをもつ家庭を訪問した。津波で失ったものと、津波の後で得たもの。津波で失ったものについて詳細に問いかけることはできなかったが、津波のあとで信頼できる夫と知り合い、わが子を抱く女性の姿には、家庭を築くたくましさを感じた。すべてが新しく建設された村でお互いに知合いのいない生活が始まったにもかかわらず、すでに、自分たちで植えた木も濃い緑の葉が繁り、表通りでは近所の人びとが世間話に興じていた。新しい生活形態が、新しい形で芽生えつつあることを感じた。
大規模な住宅建設の現場は、人道支援というよりも宅地造成業者(developer)のようであった。しかし、developerには、開発者あるいは啓発者という意味もある。中国村、慈済村、トルコ村の経験は、宅地造成が同時に開発支援に繋がることを教えてくれる。被災前にはまったく存在していなかった新しい村ができ、すでに小売店もでき、カフェも開店している。援助団体が村を作り、住宅を建設すれば、あとは、新しくコミュニティを構成することになった住民が、時間をかけてコミュニティを再生していくだろう。
共生人道支援とは、人びとの生活状況を単に復興前の状態に戻す復旧作業ではなく、必要なものを新しく興隆させることも含む概念なのかもしれない。まさに復興のプロセスである。BRRのプルワント局長が語った「私たちは、被災前よりもいいものを作り上げるのだ」という言葉が忘れられない。
従来、緊急人道支援においては、多くの場合、災害で失ったものを元に戻すということを援助哲学としてきた。しかし、緊急支援から復興支援、そして開発支援という流れは、支援する側からみた時間軸に過ぎない。「開発」を意味するDevelopmentという英語は、「発展」とも同義である。大きな災害を蒙り、そこから立ち直ろうと動き始めたときから、人びとは「発展」のプロセスを歩んでいる。
よく災害後にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)が話題になる。しかし、最近では、トラウマ後の成長(Posttraumatic Growth:PTG)という概念が提唱され、大規模災害のようにトラウマを引き起こす出来事を経験した人々が、その後に示すポジティブな変化も注目されている(Tedeschi RG, Calhoun LG. 1996)。自然災害の被災者を対象とした研究では、災害後、被災者間で協力して状況に対処していく中で、新たな人間関係を築き、他者を思いやる気持ちが強まったという報告がみられる。また、自分の経験した苦悩と悲嘆をばねに、生活を再構築していく過程で新たな進路を見出し、意欲的に取り組む姿もみられる。援助する側からみた緊急、復興、開発という賢しらな時期区分を超越して、被災者たちは「発展」しつづけていることを銘記しておくべきであろう。
共感と連帯
今回のアチェ学際調査の旅の途中で、数年前に、イラン地震の被災地を訪問したときのことを思い出していた。自分自身も大きな心の傷を抱えながら復興に邁進しているバムの人びとは、今後の課題として、インフラの整備だけではなく、人と人の関係性の大切さをあげていた。「国外からも多くの方がバムのために働いてくれ、私たちをku支えてくれた。みなさんの共感(sympathy)と連帯(solidarity)に心から感謝しています。」(ジャパン・プラットフォーム 2004)
共生人道支援とは、支援する人、支援される人が峻別される行為ではない。人道支援に赴いたつもりで、被災した人から勇気と温かさをいただき、元気になって戻ってくることも少なくない。
バンダアチェの日本赤十字の事業地を訪問したときに、担当者の方が最近は訪れる人もほとんどいないことを述懐していた。被災した人びとだけでなく、地道に復興作業に取り組む人びとに対する共感と連帯も重要である。
緊急人道支援の評価として、支援物資が公平に分配されたか、支援物資が活用されたか、といった効率性(efficiency)や有効性(effectiveness)が問われることが多い。しかし、支援物資が使われなかったからといって、有用でなかったとはいい切れない。地域社会からみれば、遠路はるばる多くの人が来てくれたことに大きな意味があるかもしれない。今までコミュニティになかったものが眼前にあること自体に何かしらのインパクトがあるかもしれない。また、共感や連帯という数値化しにくいものこそ、評価の基軸にすべきなのかもしれない。
私たちは、援助する側からの論理で即時的な効率や効果を追い求めるが、地元で暮らす人びとの時間軸は、日本人と大きく異なっている。被災後わずか3年を過ぎた現時点で、何ができて、何ができていないか、という答えを性急に求めることはやめたほうがいいと痛感した。熟成する期間を待てない調査では、結局、まだ目に見えない変化や数えられない成果を見失ってしまう。通常、緊急人道支援の最終評価は支援を継続している最終段階で実施されることが多い。また、緊急人道支援の事後評価も、事業終了後1年くらいの段階で実施されることが少なくない。このような短い間隔での最終評価報告を何度繰り返しても、被災地に暮らす人びとの生活実感を具体的に捉えることはできないのではないだろうか。これが、今回の学際調査という機会に恵まれ、多様な背景を持つ方々と朝から晩まで共生人道支援について語り続けた私の個人的な結論であった。
アチェ州においては、スマトラ沖地震津波による未曾有の被害とその後のインドネシア各地からの支援や国際的な人道支援を受けて、社会の扉が大きく開いてきたような印象をもった。しかし、その評価について、まだ語れる時期ではない。今後は、共感と連帯の心持ちで被災した人に寄り添いながら、地元の人がもつ時計に合わせて、ゆったりと長期的な展望をもって共生人道支援のインパクトを見ていきたいと思う。
中村 安秀
Tedeschi RG, Calhoun LG (1996) The Posttraumatic Growth Invetory: Measuring the Positive Legacy of Trauma. J. Trauma Stress 9(3): 455-471
ジャパン・プラットフォーム(2004)共感と連帯:イラン・バム地震支援評価調査団報告書 新しい国づくりとガバナンスの課題
東ティモール
2007年7月
2007年7月に「東ティモール学際調査」は、本研究班として最初の合同学際調査でした。日本国内の準備会において、多くの研究者やNGO関係者から貴重な体験談を聞かせていただきました。東ティモールにおいては、日本大使館、国連機関、NGO団体の方々に公私にわたりお世話になりました。政情の不安定な時期でしたが、おかげさまで無事に有意義な調査を遂行することができました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
今回の調査は、種々の異なる背景を持つ研究者や実務家が、同じ行程をともに体験するという「呉越同舟」的な学際調査手法を人道支援の現場に応用する最初の試みでした。まだまだ試行錯誤の途上ですので、この報告書をご笑覧いただき、忌憚ないご意見やご批判をいただけると幸甚です。
新しい国づくりとガバナンスの課題
東ティモールは、1999年の住民投票以来、インドネシアの国家体制に代わる独自の国づくりを模索している。住民投票から8年たった2007年現在、東ティモール人自身による新しい国づくりに関して、次の課題が見られる。第一に、近代国家の運営に必要な東ティモール人の人材育成が遅れ、行政、軍事、保健医療の分野などにおいて、未だ海外の人材に頼らざるをえないこと。第二に、それらの分野では、国際組織などがその立て直しに重要な役割を担ってきたが、どのように東ティモールの政府あるいは民間の機関にハンドオーバーするかの見通しが不透明であること。その結果、東ティモール人のあいだから、国づくりの「オーナーシップ」が東ティモール人自身にないことに対し、疑問と批判が聞かれることである。
国際支援は、東ティモール人の主権を尊重する立場から、東ティモール人自身による国家形成の見通しについて包括的な戦略を立て、説明責任を果たしながら実施されることが望ましい。この点、SHAREの保健教育支援は、注目に値する。SHAREは、Family Health Promoter Program (FHPP)という国家プロジェクトの一環として保健教育プログラムを開発・実施し、地域住民自らがプログラムを運営することを支援している。SHAREは、国家政策を尊重しつつ、地域社会に密着して根気よく対話を積み重ねながら、国家政策、住民、国際支援をつなぐ重要な役割を担っているといえる。
日本政府の支援
日本政府は、支援額にして第四番目の援助国であり、人材交流などを通じ、東ティモールの復興・開発に貢献してきた。東ティモール政府も、日本の人道支援を高く評価している。一方、東ティモールの復興・開発過程においては、日本のNGOも活発に活動し、国際機関も日本人は多い。日本政府の人道支援においては、日本政府と東ティモールの二国間関係の協力に加えて、日本のNGO、国際機関、および東ティモールの市民社会との連携も重要である。
日本に拠点をおく国際NGO(日本のNGO)による支援
日本のNGOは、グローバルスタンダードや規模を優先しがちな欧米に拠点をおく国際NGO(欧米のNGO)に比べ、小規模ながら地域社会に密着し、現地の目線に立った支援を行っている。日本のNGOは住民と国際機関、あるいは住民と現地行政のあいだに入り、両者をつなぐ貴重な役割を果たしている。このような日本のNGOの現地社会に対応したきめの細かい支援は、推奨されるべきである。
一方、重要な役割を担っているのにも関わらず、概して東ティモールにおける日本のNGOのプレゼンスは低い。これに対し、次の二つを提案する。
①日本のNGOは、日本大使館、国際機関、現地メディアに対する広報・ロビー活動を重視すべきである。とりわけ、現地の東ティモール社会に対する情報発信が足りないという印象をえた。NGOだけではなく、一般的に日本の東ティモール支援は、国際社会に対する責任説明を中心に行われてきた面がある。東ティモール社会に対する説明責任という面からも、支援活動に関する情報発信を行い、東ティモール国内においてその活動に対する理解を高める努力が必要だと考えられる。
②欧米のNGOのように大規模かつ広範囲なインパクトを高めることによってプレゼンスの向上を目指すのではなく、地域に密着したきめの細かい支援の重要性を唱えることを通じて、プレゼンスを高めることが望ましい。しかし、多くの日本のNGOは、限られた予算、人員、組織規模のなかで事業を実施しており、広報活動、情報発信、説明責任の方面にリソースをさくことには限界がある。日本のNGOのきめの細かい支援を、資金的にも人的にも支える戦略的な枠組みが必要である。
復興・開発過程における国際標準の導入とその弊害
東ティモールにおける国際機関主導の復興・開発においては、教育、保健医療、ジェンダーなどの分野において、国際的に標準とされているモデルが導入され、地域社会に固有の価値観への配慮は、その重要性が唱えられはしても、必要最小限に取捨選択される程度である。
例えば、保健医療支援の分野においては、従来の民間医療が果たしてきた役割への理解は、重視されていないようであった。一方、保健医療支援を参加型にするためには、従来の医療や治療の考え方への理解が必要であろう。東ティモール人が、外からもちこまれた国際水準にもとづく支援を、彼らの世界観のなかでどう捉えているかについて、支援する側が歩み寄って理解することが重要である。
このようななか、復興・開発過程における国際標準の導入と、地域社会における慣習的実践をつなぐ役割として、地域に密着して活動を行うNGOへの期待は大きい。また、住民の生活世界を理解することに関しては、地域研究が十分協力可能な分野である。
プロジェクト主義の弊害と東ティモールの包括的支援
東ティモールのような国家全体の復興・開発支援においてもとめられている成果とは、プロジェクト単位としての成果(プロジェクト主義)ではなく、各プロジェクトの総体としての包括的な成果であろう。また、プロジェクトの直接的な効果だけではなく、長期的な過程でおこる「外部効果」や「二次、三次効果」をもふまえたうえで、そのつど、支援戦略を軌道修正することも重要である。この点に関し、日本の支援全体に対し、次の三つを提案する。
①日本の支援は、関連団体との協力・連携体制を一層強化し、包括的な支援戦略に位置づけて実施されることが望ましい。
②支援団体は、プロジェクト終了後もフォローアップを行い、その長期的なインパクトを理解することが重要である。援助団体では担当者の入れ替わりが激しいので、プロジェクトの実施状況に関する情報を団体内で体系的に蓄積することが必要不可欠である。初期の緊急人道支援の経験、情報が体系的に残されておらず、その後の人道支援に、教訓が活用されていないことは、残念である。
③プロジェクトの実施によるさまざまな社会的インパクトを分析し、その後の支援にフィードバックして戦略的に活かす思考が求められる。例えば、ピースウィンズ・ジャパンが実施したQIPS(Quick Impact Projects: 早期効果波及事業)は、今日まで継続しているプロジェクトと、中断したプロジェクトがあるが、それぞれの原因を分析することにより、東ティモールの次の支援や、他地域のQIPSにその教訓を活かすことができよう。
中村 安秀